権力のためなら平気で他人を裏切る人間が頻出するのが中国の歴史です!
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今日は中国の歴史について触れたいと思います。
よく中国は3000年の歴史とか、いろいろ仰る方がおられますが、日本の皇統と違って、皇統が断絶しているという点が特徴です。即ち歴史が断絶されてしまっているということ。中国の王朝は、易姓革命で、一族皆殺しか、自殺か、禅譲後殺されるか?といったように、宋の国を除いてずっと王朝が変わってきました。
それに比べて日本は、神話の時代の話から連綿と歴史が積み重なり、2000年以上も経てもなお、男系の皇統が引き継がれています。
逆に中国の歴史は王朝が変わるわけですが、その中でも春秋戦国時代の「秦国」の始皇帝について、少しだけ触れたいと思います。
時は紀元前の春秋戦国時代で、七雄と呼ばれる七大国が500年に渡って覇権を争い、激しい戦いを繰り広げていたのですが、そんな状況の中、戦乱の世をおさめて天下を統一するものが現れました。
それは中国を統一した「秦国」の始皇帝となった政(せい)という人です。
この政という人は、秦国の敵国の「趙国」で生まれ、人質にされていたそうです。なぜ、人質として生まれたか?といえば、政の父親が敵国に人質として捕らえられており、政も生まれながらにして人質とされたからとされています。
<紀元前260年の春秋戦国時代の地図>
(出典:ウィキペディア)
そんな不遇な状況に置かれた政が3歳の時に最大のピンチが訪れました。政という人質がいるにもかかわらず、秦国が趙国に攻撃を仕掛けたのです。
秦国自体、人質の政の身が危うくなることは承知の上で、趙国の首都を攻めました。理由は、政の父は秦王の子でしたが、王位を継げる可能性が極めて低かったからとされています。そのため、秦国にとって政の父親も、政も死んだとしても惜しくない人質だったのです。
秦国が趙国に攻めたことで、趙国は政の父親も政も生かしておく理由がなくなったため、政の父親も政も間もなく殺されようとするときに、呂不韋(りょふい)という商人が現れ、政の父親も政も助けました。
呂不韋は大金を使って趙国の監視役を買収し、政の父の祖国の秦国へ、政の父親を逃がしました。政の方は緊急事態だったので、秦国に帰ることはできませんでしたが、呂不韋の配慮で趙国の豪族の家に匿われました。
その後、6年後に政が9歳になり、秦国に帰ることになります。政の父は呂不韋の取り計らいと幸運が味方して、秦王となりました。
秦王は、命の恩人の呂不韋に役職を与えました。単なる商人だった呂不韋は、高位を手に入れたのです。
ところが政の父は、わずか3年で亡くなります。まだ13歳だった政は、新たな秦王となったのですが、13歳の少年の政が国を統治することはできず、実質的には呂不韋が実権を握ることになりました。
その後、政が22歳前後の頃、国内で反乱が起きたのですが、その反乱を起こしたのは、政の母親とその愛人でした。政の母親とその愛人は、政を殺し、愛人との子どもを次の王にしようとしたのです。
そしてこの反乱の裏で手を引いていたのは、命の恩人の呂不韋でした。実は呂不韋自身も政の母親と関係があり、しかもその関係は政が生まれる前から続いていたのです。
政は現実に絶望したことでしょう。何しろ、政の母親とその愛人が自分を殺そうとしたのですから。
なんとか政はこの反乱を鎮めることに成功し、実の母親を幽閉します。そして多くの人を惨殺して、4000人以上の関係者を国外に追放。さらには愛人や愛人に近しい人物を晒し首にしました。
裏で画策していた呂不韋は処刑されて当然なのですが、政は処刑することができませんでした。なぜならば政の命の恩人でもあり、絶大な功績のある呂不韋の命だけは守って欲しいとの諸侯の懇願があったからとされています。
しかしながら権力欲に溺れた呂不韋は、その後も不穏な動きをしたため、政はついに呂不韋を国外追放するという決断をします。
政は愛する母親、信頼する人から裏切られ、人を信用することができなくなってしまいました。そんな彼は、秦国以外の人を排除する法律を作ろうとしましたが、その理由は母親の愛人が他国出身であったためとされています。
ところが、法家の李斯(りし)という人物が、反論を唱えました。李斯は秦国が経済・軍事の面で優位を保ってきたのは、国外の人民や製品を取り入れたからと主張したのです。
李斯の主張に納得した政は、排斥する法律を取り下げました。政はカリスマ性もあったのですが、冷静な判断もできる人物でした。
政は法律を整備し、秦国の農業生産力・軍事力を増強。さらに王に権力を集中させる中央集権体制を構築し、内部の反乱を未然に防ぎました。
その後、政は諸国を亡ぼして秦国が中国全土を統一しようとして、次々に6大国を滅ぼしていき、呂不韋の国外追放からわずか15年で中国史上初となる「皇帝」として君臨することになったのです。
そんな政自身の活躍で皇帝となった政ですが、皇帝になった後、たったの15年で滅びてしまいました。
歴史学者の中には、思想や言論の統制を行ったから滅びたという学者もいますが、中国本土では現代でいうフェイクニュースが儒家から流されていたため、ある程度の言論統制は必要でした。
万里の長城の増築をやったため、疲労した人々が反乱したという人もいますが、それは、どの皇帝も同じだったでしょう。
秦国が没落した後も、数多くの王朝が興亡を繰り返して、中国大陸を統一しても、その後崩壊してしまう歴史を積み重ねます。秦国の政(始皇帝)から2000年以上経って、毛沢東でさえも失脚してしまいます。
中国大陸は想像を絶する殺し合いが頻発し、権力欲があって権力のためなら平気で他人を裏切る人間が頻出するのは、今も昔も変わらないのが中国であるといえるでしょう。その結果、日本の皇統のように延々と受け継がれる伝統などなく、王朝ごとに断絶した不毛な歴史を辿ってきたのが、中国の歴史なのだと私は思います。
というわけで今日は「権力のためなら平気で他人を裏切る人間が頻出するのが中国の歴史です!」と題して中国の歴史について論説しました。
私はかつて、親中的な考えを持っていました。何しろ、高校生の時に中国武術の南拳を習い、大学生の時に第二外国語で中国語を学び、社会人になって2002年には中国株の投資をはじめ、2010年には上海万博にまでいきました。カラオケでは中国語の歌を歌うこともできます。
そんな私もマスコミに騙されて中国の歴史が日本よりも優れていると思っていたのですが、実際は日本の皇統とは全く違い、日本の皇統こそ世界に誇れるのであって、他国の中国の歴史など、薄っぺらい歴史であると思うようになりました。
左翼的な自虐史観や、マスコミの中国の礼賛に騙されないようにするためには、歴史教育は大変重要なものであると思いますし、学生の方々におかれましては、若いころから日本の皇統のすばらしさについて学んでいただきたいと私は改めて思うのです。
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- 2019.11.10 Sunday
- 世界経済(中国・韓国など東アジア)
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- by 杉っ子